沿革

近江聖徳太子霊場

 観音禅寺は、仁寿三年(853) 、小口(おぐち)・山中(やまなか)の一帯に大伽藍を有していた法満寺を守護する別院として草創されたのをその濫觴とする。当時は観音寺と称した。本尊は、聖徳太子が自ら彫られた十一面観音菩薩。当時は現在よりも少し北にある松ヶ丘観音谷に所在していたと考えられている。

 観音寺の母体となる法満寺は、文武帝の世にあって大宝律令が制定された大宝元年(701)に創建された。開基は金蕭菩薩であると伝えられている 。平城京遷都の天平十一年(739)に南都東大寺開山・良辯僧正(689-773)によって伽藍が整えられた。

 平安時代後期の寛治六年(1092)、堀河帝より官載伽藍を賜ったことで官寺と定められると共に前述の五別院が再建され、最盛時には山中(やまなか)を中心に広大な寺領を有し、僧房五十六宇を数える大伽藍を誇ったという 。

 戦国期の天正年間(1573-1592)、法満寺は観音寺を含めて全山が兵火に焼尽したが 、不思議にも当山の十一面観音様だけが焼け残った。焼け野原に厳かなお姿で佇んでおられた観音様のお顔は慈悲に満ちあふれ、人びとの争いを憐れんでおられるようであったという。

 その後、江戸期に入り正保三年(1646)、小口村の奥家により山林が喜捨され、さらに寛文二年(1662)、列岑鈞禅師(?-1702)が当処へ来て、聖徳太子が彫られた觀音寺の本尊である観音さまを小口邑末代までの氏仏として祀れとの夢告を受け、現在の地に寺を建立。元禄年間(1688-1704)に至って臨済宗の西鮮禅東禅師(?-1714)がここを禅寺とした。

 明治期に再び無住となるも、大正七年(1918)、瑞岳玉道尼が堂宇の修復に尽力。その後、三代にわたり尼僧が住持を務め、小口の人々によって護持運営されてきた。正に心が形となって現れた寺といえる。

 現在、臨済宗妙心寺派に属す禅寺として、小庵ながらも地域を見守っている。

観音禅寺本堂常に扉を全開し、どなたでも上がってお参りいただけます。

観音禅寺の本尊

 当山の本尊は十一面観世音菩薩である。その尊像は当寺の創建よりも古く、斑鳩宮が建立された推古帝九年(601)、聖徳太子が28歳の砌、一刀三礼(一彫りごとに五体投地の礼を三度すること)によって彫られたと伝えられる。長く法満寺の守護尊とされていた秘仏である。

 60年に一度の大開帳と、30年に一度の中開帳の節目にのみ、その姿を拝むことができる。最近では、平成十二年(2000年)に大開張が行われた。

 地域の安穏を見守る「小口の観音さん」として親しまれると共に、たいへん霊験あらたかであることで知られ、篤い信仰を集めている。

令和5年(2023年)2月23日、聖徳太子1400年大遠諱法要を厳修するにあたり、特別報恩大開帳を予定している。


聖徳太子は、この山に紫雲がたなびき、その中に瑠璃色の光を見て、この山が霊山であると知り、山に分け入ると、金色に輝く観音が現れ、この山は霊山であるから、ここにわれを祀れとのお告げを受けて、観音禅寺の本尊・十一面観音を一刀三礼して自ら彫られました。
2023220日から3月26日(大開帳期間中)ライトアップを行いま